70年目は骨抜きになってタコ踊りして

 戦後70年の首相談話が発表されたので読んでみた。70年談話:安倍晋三首相談話全文 - 毎日新聞

 新聞にもあまり目を通していなかったので事前知識ほぼゼロ。安倍晋三がどう文章をこしらえたか、その興味だけで一読してみた。

 率直に言うと、文意がつかみにくい、官僚がつくったような文章である。文章でパッとしなくても、演説すればそれなりにサマになるのであろうか。いや、そんなことはないだろうな。

 数珠つなぎのような構成(Aもあり、Bもあり、Cもあり・・・)、打ち消しによる中和作用(Aもある。しかし・ただ、Bもある)が目立つような気がする。とにかく、いろんなところに配慮しようとした形跡がある。たぶん、この1か月くらいで文面はかなり変更されているんではなかろうか。

 ということで、文章としては見ることがない、価値を見いだしにくいものとなっております。残念。最後の方、女性の人権や国際経済システム、そして「積極的平和主義」に触れたところは、唐突な印象もある。「この言葉は使いたかったのだな」と見え見えで、せこいとすら感じるほどだ。文章じゃなくて、ただの「言葉パズル」じゃねえか!と思いました。

 でも、日本にはそうした文章があふれています。行政文書はそうだし、企業のプレスリリースもそうです。悲しいばかりです。(パズル文章に疲弊しきった私の脳みそに、会田誠の『青春と変態』という小説はときめきを与えてくれた)

 

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  突然だが、上記の絵は、竹田一夫「或る記憶」という。先月末あたりに千代田区のちっこい施設でやっていたシベリア抑留者の絵画展で見た。竹田氏は戦後、現代美術の団体の会長を務めたとか、セミプロで活動していた方のようである。

 見ての通り、抽象的な絵だ。身体の節々が砕け、焼けこげたような人間がおり、その後ろに亡霊のような、モノのような人間たちがゆらめいている。人間たちは地面と空に溶け出しているようにも見える。節が砕けた人は、人間たちが溶けた地面に座り、もだえているのか。地面には棒が刺さり、その影が不気味に伸びている。

 陳腐な言い方だが、自らの体験を刻みつけようとしたのではないだろうか。どうやらこの絵を描いたのは、晩年になってから(竹田氏は故人)。若い頃、頭の裏に着床した記憶をできるだけ正確に現出させたらこうなった、という説得力を感じさせる。

 

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 同じ絵画展にあった、佐藤清「埋葬前のたき火」という絵である。

 詳しいキャプションがついていた。「極寒の夜、凍った地面をどうにか削り、苦労してたき火をおこした。へとへとに疲れた人は、たき火に手をかざしてつかの間の心の平安を得た。火が服の裾に燃え移っているのも気づかずに」という意味の文章がつづられていた。そしてタイトルが「埋葬前のたき火」。

 絵の中で、人はたき火と一体となっている。身体は火の暖かみで解凍され、ぬくもりを取り戻し、顔には安堵の表情が浮かび、周囲にも暖かく穏やかな空気が広がっているようだ。

 この絵にはとても惹かれている。たき火に手をかざした(炎を抱いているといったほうが正確なくらいだ)彼が、心が穏やかなまま死んでいったのかは想像の及びつかぬところである。ただ、佐藤氏が絵にタイトルをつけ、キャプションをつけたことに何かしらの意思があったのは確かだと思う。

 二つの絵は全く違うように見えて、同じようにも見える。うまく説明はできないけれども。

曹良奎という、かつて日本にいたという、絵描き

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 日本で使われるカタカナでは、「ジョ・ヤン・ギュ」と読むらしい。載せたのは、彼が1958年に書いた「マンホール」シリーズの一つ。彼の本は本屋になかった。新刊では発行されていない。ネットで調べたら、1960年に発刊された作品集が古本屋で出回っている様子。安くても6万円くらいする。明治大学の図書館にも置いてない。しかたなく美術雑誌に載ってやいないかと本屋でバックナンバーを繰っていたら、運よく1ページだけあった。とてもうれしくて写メした。

 もともと、この絵は、東京・竹橋の国立近代美術館で見た。「美術にぶるっ!」というイマイチなタイトルの企画展だったが、内容には圧倒された。近代の始まり(っていつなのか、明治くらいだったか)から昭和中盤あたりまでの日本の美術作品(正確には国内で描かれ、創られた作品でしかないのだが)が、ずらっと並べられていた。特に、このジョさんの作品には、陳腐な表現だが、息をのんだ。館内を2周してじっくり鑑賞してのに飽きたらず、日をあらためて再び出会いに来もした。

 とても簡素で地味な印象さえ受ける絵だが、実物は人の背丈ほど巨大だった。絵に吸い込まれるとはこのことを言うのか。当時、作品を忘れないために殴り書きしたメモには「マンホール ぬりつけられた色 えのぐ 不安をかられる穴の黒 これは圧倒的 みればみるほどすごい」と書いてある。結局、言いたいのは「みればみるほどすごい」という感動だけだったのだろう。

 それを急に思い出した。

 展覧会は2012年末~2013年頭くらいの会期だったから、もう2年半経っているのに、突如、自分の中にマンホールがむくっと姿を現し、むくむくっと急激に大きくなってきた。展覧会でいくつも絵を見たのに、マンホール、というかジョさんの絵は鮮明に覚えていた。印刷物を探し当てたが、自分の記憶の絵のほうが、それより鮮明で存在感を放っているので、あらためて実物を見たいなと思っている。

 さて、なぜマンホールはむくっと出現したのか。その問いに対する答えはなんとなく分かっているが、答えるのは野暮、かつ、しらけるので、やめる。

 ネットで調べる限り、ジョさんは、現在の韓国の南部にある普州(チンジュ)に生まれた。1948年に日本に密航。そして、いくつかの絵を残した後、1960年、当時は希望の国と思われていた(そのへんのことはパッチギ!なんかを参照)北朝鮮に向かった。その後の消息は知れないという。

 調べてみたら、1948年は大韓民国が建国された年。朝鮮半島の南北の分断が決定的になり、南半分(韓国)は西側陣営(アメリカ)の傀儡になった。1960年は言わずとしれた日本で安保改定があった年。安保改定を強硬に進めようとした岸信介政権に対し、国会前などで連日抗議活動が行われていた。

 マンホールの闇、行き場のないパイプ、転がる土管、土くれ。

 ジョさんはどこにいようとこんな心境だったのではないか。いや、「心境」もあるものか、という心境だったのではないか。それを自分を覆い隠さんような巨大な絵に込めたのか。

個人の戦い

 安保関連11法案が今週中にも衆議院を通過しそうだとメディアが伝えている。とてもあっさりとしている。皆が冷静すぎると感じている。

 先日、会社の組合の幹部である先輩記者(31)が、団体交渉中に会社役員に激高し、ひどく罵ったあげく、団交を途中退席。その辺にあった椅子をぶち蹴り、帰ってしまった。

 オーナー企業であるせいか、役員待遇が旧態依然としており、現場の実情も理解しようとしない態度に対し、怒りが爆発したのだ。

 すでに一週間が経過したが、怒りは収まっていない。多くの一般社員はその気持ちを理解しているが、今では会社側はおろか、一般社員のほうにも「子どもじゃあるまいし」という意見が出始めている。はたまた「あの人はそういうところがあるから」という声まで。

 

 私は組合に加入していない。役員がどうしようもない人間であることは知っているし、そいつらに対抗するために組合に参加して協力しなければいけないというのは分かっている。

 しかし、冷めた気持ちに嘘はつけない。私は今、会社以外の場でどうやって自己でいられるかを強烈に求めているからだ。逃げていると言われても否定はしない。ただ、ある程度の年齢、経験を重ねることで、限られた時間と能力をどう使うべきかを考えざるを得なくなる。いかに徒労であっても、自分の納得できる徒労を味わって生きていたいと思うのだ。

 だから件の先輩記者の行動を訳しれ顔にたしなめたりなんてことは、決してしない。加勢もしないけども、彼もそれを求めてはいないだろう。これは個人の戦いである。言ってること、やってることが何だろうと、人間は2種に分かれる。メンツと振る舞いにとらわれる者と、とらわれまいとする者。どちらの人間だって、豊かに幸せに生きていける。ただ、個人の戦いを許されるのは後者だけだ。

 

 個人の戦いのあり方はさまざまだ。私は、安保法制に反対する学生グループSEALDsの人たちにも、個人の戦いを感じる。これまで、あらゆるデモ・集会には、仲良し集団が放つ、居心地の悪い生あたたかさがあった。SEALDs関連の集会には、それをほとんど感じることがなかった。

 個人の戦い、その定義は?バカなことをおっしゃるな。見て、聞いて、感じれば、おのずと分かる。そういうのが個人の戦いだ。

 

ザハはどこへいったのだ

 あった、あった。この写真。

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 前列のおかっぱ頭が安藤忠雄、その右隣がザハ・ハディド、そしてザハ事務所の取り巻き連中。まるで世界各地の若い男の生き血を吸って肥大する女首領、ザハ・ザ・ハット(ジャバ・ザ・ハット参照)。

 コンペに優勝して表彰式をしたときの写真だから、2012年11月。ザハはこのとき、デザイン案の中身を模型と映像を使って簡単にプレゼンしたかと思うのだが、はっきり言ってザハ本人からその意義だとか崇高なコンセプトが語られることはなかった。その後、自分の案をめぐってゴタゴタが起きている間、彼女は静観していたのか?何らかのメッセージを発したのかどうかは寡聞にして知らない。

 槇文彦先生は、ザハ案のアーチ構造が諸悪の根源、日本の設計チームで代替案をつくるしかないとおっしゃっていたが、それではやっぱりちぐはぐな設計案にしか成り得ないのではないかと思う。

 それならば、どうにかして旧国立競技場の解体を阻止するしかなかった(もう跡形もなくなってしまった)。旧国立競技場の意匠を生かして、未来に向けた新たなシンボルをつくるというなら、日本の建築界の英知や日本が持つ歴史の歩みといった、いわゆる「集合知」を総動員して、良いものがつくれたんじゃないかと、そう夢想する。

 なんせ将来の日本のシンボルだ。専門的な「建築」にこだわらなくっても、老若男女、それこそ小中学生なんかからもアイデアを募ったっていい。それをまとめ上げる場面でだけ、日本の建築家たちがその職能をいかんなく発揮すればよかった。

 だけど、そんなことは夢物語で、後戻りはできない。

 わたしの希望としては、やはり急いではいけないんじゃないかと思っている。忙しくなっちゃいけないよ。いまの状況は、推進派も反対派もヤケになる一歩手前でないか。そりゃ、ほんとにヤケになったりはしないはずだけど、そういう心持ちでコトを進めるべきなのだろうか。

 いろんなところで言われているけれど、このままつくったら負の遺産になりそうだ。未来の人たちがそれを背負い込む。いま!政治の場面で問題となっているものすべてそうだけどさ!

 だからこそ、ザハを日本に再招聘すべきだ。デザイン監修者として今も契約しているというのだが、どこまでタッチしているのか不透明だ。しっかりと、彼女自身から、何を考えてあのデザインと生み出したのか、その修正案に対して、いまのゴタゴタに関して、どう感じているのか語ってもらいたい。そして、いまから何ができるのか、示してもらおう。「何をいまさら」と周りがケチをつけるのは無しで!

 実際の設計を担当している日本の設計チームはプロ中のプロだと思うけど、今回の件に関してはさすがに困惑しているんではないか、と想像する(建築設計のことは何も知りませんが!)。そこにザハが加わって、協働していけば、何とか道は拓けてくるんでないか、ようやっと調和が生まれてくるんでないか、そう勝手の勝手に考えております。

新国立競技場問題の根深さ

 新国立競技場建設計画が大問題に発展している。ザハ・ハディドのデザインが決まった時から建築界で論争はあったが、ここまで深刻になるとは思っていなかった。正直、いまでも若干、その理由を分からずにいる。先を見通せないうえに鈍感な自分が恥ずかしい。
 ということで、自分の頭を整理するつもりで、この「新国立競技場問題」を振り返ってみようと思う。といっても、新国立競技場の問題点を挙げていくわけではなくて、新国立競技場をめぐって誰がどんな発言をしたのかを拾っていく。なぜ、ここまでズルズルときてしまったのか。そこが最も気になるところである。

 


①「現代日本の建設技術の粋を尽くすべき挑戦となる」「日本にはスケジュール管理と同時に品質を保証できる技術がある。この建築をつくりあげれば、これから100年、世界のスポーツの殿堂になるだろう。1964年建設の国立代々木競技場がそうであったように世界最高の技術をアピールする」(安藤忠雄、2012年11月)

 ザハ・ハディドの設計案が選ばれた新国立競技場デザインコンクールの結果発表の場に、私は居合わせた。当時のメモを見直すと、既にその時から「キールアーチ」(競技場の天井にかかる背骨のようなもの)は、実現可能性が疑問視されていたようだ。審査委員長の安藤がどのように答えたかは上記の通り。
 そして、記者会見の最後に安藤は「基本設計、実施設計と進めていく中で、問題点が多く出てくるだろう。JSCの事務局、設計者と強いチームをつくって乗り越えていきたい」と語ったと記事にある(自分で書いたのだが)。確かに安藤の予想通り、問題はたくさん出てきた。しかし「強いチームをつくって乗り越える」という意気込みは言葉だけに終わった。

 


②「(ザハのデザイン案が)これだけ大きくなった理由はプログラム(募集要項)にある」「プログラムが粗雑なコンペと言わざるを得ない。今後に懸念を抱いている」(槇文彦、2013年10月)

 ザハのデザイン案に対しては、当初から議論があった。私は、違和感を感じつつも、今まで見たことないすげえ建築なので、「大々的にコンペをやって、決まったことだし、どうにかしてやるんだろうなあ」とのん気に考えていた。自分で言うのも変だが、こういった思考が社会全体に蔓延しているのは危険だと思う。この件は、また後で触れたい。
 最初にザハ案に対して明確に異を唱えたのは、槇文彦だったと思う。日本の建築界の仙人みたいな人である(たぶん)。13年の夏ごろにJIA(日本建築家協会)という建築家の集まりの会報に、設計案とコンペそのものを批判する論文を掲載。それが反響を呼んで、同年10月にシンポジウムを開いた。ザハ案の決定から1年近く経ったころである。
 シンポジウムの発言者の意見はさまざまだ。ザハ案は周辺環境に調和しない。社会が少子化を迎える中で、ふさわしいモニュメントとは思えない。建設コストはもちろん維持管理費も莫大になるだろう。現在も指摘されている問題点の多くが出尽くしていたと言っていいだろう。
 憤る仙人・槇文彦は「我々(建築家)がおかしいと思う気持ちを外へ伝え、建築のことを知ってもらわないといけない」と会を閉めた。その後、建築界では、コンペを見直すように要望活動を行ったり、既存の国立競技場を改修するなどの代替案をつくったりしたが、事態はあまり変わらなかった。

 

 

③「決まった以上は最高の仕事をさせる、ザハ生涯の傑作をなんとしても造らせる、というのが座敷に客を呼んだ主人の礼儀であり、国税を使う建物としても最善の策だと思う」(内藤廣、2013年12月)
 「当初のダイナミズムが失せ、まるで列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿に、いたく失望いたしました。このままで実現したりすれば、将来の東京は巨大な粗大ゴミを抱え込むこと間違いなく、暗澹たる気分になっております」(磯崎新、2014年11月)

 コンペの審査委員長・安藤忠雄が沈黙する中、審査委員に加わったもう一人の日本人建築家・内藤廣は、ザハ案に反対する建築家グループらを返す刀で批判した。仙人・槇文彦の声掛けの影響は絶大で、当時は建築界全体がザハ案への反対に動いていたさなか。異論は沈黙するしかないような状況で、内藤廣は(自分が審査の当事者だったのは当然だが)あえて批判の矢面に立ったのだろうか。
 ザハの当初案が3000億円を超えそうだと国が発表したのが13年10月。規模を縮小して建設費を圧縮するという国の方針に、内藤は懸念を表明した。
 ザハ案を規模縮小・修正した基本設計は、日本の設計チームが担当。磯崎新のコメントは、それを見た後のものだ。内藤の胸中はどうだったろう。
 みんなの思いとすれ違い、誰も望まない方向へと歩みを進めていく新国立競技場。誰の思惑で事が進んでいるのか分からない不気味さ(森喜郎の思惑だと思うと反吐が出る)。

 

 

④「新国立競技場建設の責任者に能力、責任意識、危機感がないことは驚くべきことであり、大日本帝国陸軍を彷彿とさせる。日本を戦争、そして敗北と破滅に導いたこの組織の特色は、壮大な無責任体制になる」(舛添要一、2015年5月)
 「間に合わないからこのままいくというのは太平洋戦争の日本軍と同じ。世界最大の(戦艦)武蔵も役に立たず終わったんです」(槇文彦、2015年6月)

 新国立競技場は、別に東京オリンピックのための施設ではない。建設主体はもちろん東京都ではなく国。正確に言えば、文部科学省の外郭団体のJSC(日本スポーツ振興センター)という組織だ。オリンピック組織委員会の会長だからって、森喜郎に権限はないはずだ。オリンピックに間に合わなかったら違うスタジアム使えばいいじゃねえか(と言うと、国際的な信用がどうのって話になる)。
 つまり、関係者が入り乱れてわけ分からんことになっていて、ある意味、すべての人に逃げ道が用意されている。一方で、勝手なこと言う奴は、躊躇無く勝手なこと言う。
 東京都知事舛添要一は、そこんところをはっきりさせたかったんだろう。今のところ、国から半ば強制的に求められている500億円の拠出要請も突っぱねている。ただ、オリンピックのメーンスタジアムは必ず完成させてほしいのが本音。当然「敗北と破滅」は望んでおらず、落としどころを探っている。
 高齢の仙人なのにずっと先頭で発信し続けた槇文彦の言葉は、戦争を経験した世代だからこその警句だが、現在の状況をもっとも適切に表していると思う。事態は「敗北と破滅」なんていう大仰な表現では伝わらない。なぜなら「敗北と破滅」するのは国で、そこに生きる人々ではないから。たぶん、槇の言葉の裏で想定されているのは、未来の日本に生きる人々に降りかかるなにかしらの不幸なのだと思う。

 

 

⑤「何でこんなに増えてるのか、わからへんねん」(安藤忠雄、2015年7月)
 「国際コンペをやると約束し、監修権等をザハさんに与えると決まったのが2012年11月、我々が政権につく前のことだ。事実として述べると、民主党政権時代に、ザハ案でいくとということが決まり、オリンピックを誘致することが決まった」(安倍晋三、2015年7月)

 すべてを物語る言葉を最後に。安藤のコメントは非公式のもののようだからしょうがないにしても(審査自体に瑕疵はないとして、問題はその後に沈黙したことだ)、安倍晋三のは最悪である。

 この発言、もしオリンピックまで完成しなくても責任とりません宣言ではあるまいか。信じられない。ここまで腐った心根とは。分かりきっていたけども。つくづく裏切らないやつだ。腹を下さないように一生懸命。全力投球するのそこかよ。

 個人的な意見を言えば、スタジアムなんて完成しなくたっていい。むしろ、そのことを望んでるくらいだ。途中で方向転換してよりいいものをつくったほうがいいではないか。議論をいくら重ねたっていい。誰も死ぬわけでない(誰かのクビは飛ぶかもしれんが)。

 問題の根の部分は、安保法制とも似ていると思う(ただ、安保法制は後戻りできないという意味で性質がまったく違う)。安倍はそういう根の部分をうやむやにしたまま押し通そうとする。全部そうしている。そんな姑息なやり方にだまされるか。

肝のだだ漏れ男

 眠っているのか起きているのか判別できない半目状態でうつらうつらしているとき、私は現実を忘れられるのである。

 今日の昼下がりにも、優しい太陽の光を浴び、さわやかな風を受けながら、現実離れした至福と不安が入り交じった時間を味わった。

 そういう状態で眼裏に照射される光景(いわゆる夢だが)は、だいたい覚えていない。思考回路も普段と違うため、論理では追い切れない。

 ただ今日は、こんなことを思った。映画で人が殺される。あるいは、遠く海を隔てた国で、無差別に人が殺される。私の眼前にいた人は、子どもではなかった。私くらいではなかったか。その人は、28年間も生きてきて、言い換えると1万日以上生きてきて、今日、この瞬間に殺されたのだ。

 考えてみると、不思議なことだ。それなりの長さ、燃え続けてきた炎が、ぽっ、とあっさり消えてしまう。おそらく、これが私が無意識に抱える死への恐れなのだろう。

 さて、安保法制の話になってしまうのだが、私はこれに反対の意を示すに当たって、自分の中で整理しなければならないことがあると思った。

 すなわち、①安保法制そのものに反対なのか②安倍晋三およびその取り巻き連中の強行な政治手法に反対なのかーどちらかだ。

 いや、どっちもなのだろう。ただ、現在のマスメディアの情報を見ていると、②に傾きかけている。安倍晋三に近い若手議員による「文化芸術懇話会」の一連の報道は、安倍晋三を含む今時の自民党政治家が腹の内に潜ませている「本音」を暴露したという意味で興味深かった(百田は単なるピエロだから問題にならない)。ただ、そんなことは分かりきっている。一度、政権を放棄した安倍晋三が、異なる意見を一切受け入れない非人間的な無神経さ(一方で自らの思想への狂信性)を身につけて舞い戻ってきたときから、分かりきっていた。たった1年半前には、特定秘密保護法強行採決があったではないか。何度同じことを繰り返すのか。

 正直、安倍晋三にはめちゃくちゃ怒っておる。こやつ、「おじいちゃんの悲願をおれが成し遂げるんだ」というロマンに浸りきって、国民誰ひとり眼中には入っておらん。憲法学者、政治学者、誰に何を言われようがへっちゃら。日本のヒトラーだ、ジョージ・オーウェルのニュー・スピークそのものだ、と言われても、だからどうしたと鼻くそほじっている肝のだだ漏れ男なのだ。

 やはり安保法制に反対したい。仮に安保法案が憲法に違反していなかったとしても、法案そのものに対し、反対したい。

 ぽっ、とあっさり消えてしまう命。だからこそ、誰にも左右させてはいけない。

 ということで、本題はここから・・・

殿様だけがズレている

 この1週間の新聞を読む。やはり安保法制論議に目が行く。沖縄戦の終結日に合わせた報道も多かった。つくづく安倍晋三は何て幼稚なんだと思う。いや、安倍だけではない、その取り巻きを含めてなのだろうが。

 国会議員は、基本的に、政界の動きしか見ていない。日本にはびこる「ギョーカイ」の一つなのである。これは肝に銘じておくべきだ。視野が極端に狭い。広いと見せかけて狭い。

 安保法制を今国会で力ずくでも成立させるため、国会の会期を延長させるのだという。そうやって逆算して、自分の思い通りにすることにやつらは長けている。あとは何も見ていやしない。

 安倍晋三の祖父・岸信介は1960年の安保闘争に対して、こんなことを言った。「国会前では安保反対と罵声がかまびすしいが、そんなのはここだけ。銀座や後楽園に行けば、国民のみなさんはレジャーをエンジョイしちょる」(俺翻訳)。このセリフは、我々にとってはクソに過ぎない、ある保守派論客が同じセリフを引いて「世間が過剰反応している時に冷静な判断ができる稀にみる名宰相」みたいな評価をしていて、こいつ頭狂ってると思うと同時に、これが現実かと慄然とした。

 そして、安倍晋三がこの「偉大なる祖父」の政治思想と、何よりもその態度を踏襲していることは、疑いようもない。国会前、首相官邸前で我々がいかにわめき散らそうと、やつは渋谷近くの私邸(とっても静かな高級住宅地にある)でぐーすか眠っている。

 だから無力になるわけでは決してない。サジを投げるつもりはない。個人的に言わせてもらうならば、まだサジさえ握っておらず、情けなさに歯ぎしりしているところだ。

 朝日新聞で、安倍晋三の思想背景を探る連載記事を載せていた。斜め読みする。90年代の自民党主流派は「護憲派」だったそうだ。戦時中に青年期を過ごした「戦中派」が政界の中心にいた時期だ。じいちゃんとうちゃんの代から「改憲派サラブレッドの安倍は、その時代状況がおもしろくなかった。こころざしを同じくする(世襲の)若手議員らと歴史問題勉強会なるものを立ち上げ、教科書の「自虐的な」記述に「反日だ!!」と難癖をつける活動を始める。

 生活者は「反日」なんて言葉は使わない。「自国の過ちを指摘することこそ最も愛国的な行為だ」と言った人もいたなあ。それ以前に、反日、愛国、なんでもいいが、そういう単語を自覚的に言ってしまう人は限られてくる。多くの人は後ろに「(笑)」を入れてやらないと使えないだろう。「(笑)」が嫌いな自分は、そんな単語は言えないのです。

 何を言いたいのかというと、特殊単語を使用する人々(=安倍ら)とは同じ土俵で戦えないということです。だが、戦う。相手の土俵で?・・・

 

 最後に歌を。オシリペンペンズです。

 

怪物じみて怖い 猥褻だ

妖怪じみて怖い 猥褻だ

オカルトじみて怖い 猥褻だ

変態じみて怖い 猥褻だ

猥褻だ 卑猥だ

 

腹ぺこそうで怖い 猥褻だ

話せなそうで怖い 猥褻だ

持っていかれそうで怖い 猥褻だ

忘れてそうで怖い 猥褻だ

猥褻だ 卑猥だ

 

もう一曲。同じくオシリペンペンズ

 

「君たちこの先いいことなんか一つも無い」と、おー

静まりかえる殿中、えへん

確かな声で、おー

「拷問、磔、爪剥ぎ、のちに釜茹でだよ」と、おー

泣き出すチョンマゲ

それ見て一人耐えきれなくて、おー

殿様だけがメチャ笑う

(中略)

チョンマゲだけがズレている

チョンマゲだけが花開く

拷問磔爪剥ぎ釜茹で暴行股裂水責め打ち首