政治とかを考える(1)

 あれをやりたいこれをやりたいと思っていても、そのほかのやらなければいけないことが頭をもたげて、結局何もできない・・・。

 そんな日々は苦しい。

 「苦しい」と書いて、朝日新聞の〝折々のことば〟に載っていた詩を思い出す。

 

 何でもないことを 悲しく言うのは 何でもないけど

 悲しいことを 何でもないように 言うのは苦しい   (小野省子)

 

 胸がつかえてしまいそう。選者の鷲田清一さんは「おのが悲しみについて書こうとすると、つい自らを哀れんで、ことばにふくらし粉をまぶしてしまう。あるがままを書くというのはそれほどに難しい。自分のことだからこそきちんと距離をとらないといけないのだが、自らを隔てるのは、言ってみればかさぶたを剥がすようなもの」と評している。

 

 一度にすべてを書こうとしてもうまくいくはずがない。起承転結のはっきりした、ものがたりのような、説得力のある言葉を紡ごうとしても無理がある。だったら、文章のうまいへた、字面の整然とした美しさ、余韻、などは何も意識せずに書いてしまおうと思う。思いつくままに。どこかで完結させようとすると一晩あっても足りないので、そんなことをして消耗するよりは屁をこくかのように書くのがいい。

 

 答えは出したい。やはり答えはある。だが、それを解くのは今でなくてもいい。高望みはする。だが、すぐには望まない。

 

 東浩紀の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が文庫化したので、読んでいる。おもしろい。

 ここでふと思ったのは、数百ページある本を要約するなんてすんごい難しいよなあ、ということである。本当はしっかりと引用しながら、わたしがこの本をどう読んだかを説明したいが、今日はしない。とりあえず雑感を記す。

 

 一般的に「民主主義」というのは、「熟議」があってこそと言われる。わたしたちが採用している間接民主主義制というのは、わたしたちの代表=議員による熟議を通してわたしたちの意志を決める、ということになっている。

 ただ、現在の政治状況をみるに、そのシステムは欠陥ではないかという疑いが生まれている。「わたしたちの意志」なんてそこには微塵もないではないか、という疑いである。シールズじゃないが、「民主主義はどこなんだ」という状況に陥っている。

 さて、東は、近代社会の礎となっているルソーの「一般意志」概念を掘り下げる。すると、実はルソーの目には、現在の熟議民主主義とは全く異なる社会像が描かれていたことが判明する。

 やはり世の中は、声のでかい者のためにある。それは遙か昔から変わらない。ルソーはそれじゃいけないと思った。

 政治参加のハードルが高すぎる。ディベートに勝てないようじゃ政治に意見を言っちゃだめなのか。そこでルソーは(東によると)「コミュニケーションなき政治の領域が必要だ」と思ったというのだ。

 

 わたしは長い間、ちまたで言う「コミュニケーション」に対し胡散臭さを感じてきた。わたしたちが分かり合い、思いを分かち合うためのものではなく、むしろ相手を出し抜くための極めてテクニカルな方法になっているような気がしていた。

 そんな考えがあったから、この本には冒頭から一気に引き込まれた。

 

 (つづく)

社会人と飲むということ

 今週は2つの飲み会がありました。

 

 1つは取材先との飲み会。新宿で飲んで、帰りがけにホームレスの人たちのことに話が及びました。

 なぜホームレスの人たちの話になったのかは、酔っていたので覚えていません。その時、前からホームレスらしき人が歩いてきて、取材先の人と「こんな寒い時期は大変だ」と話していたような気もします。

 私は、ふと、「あの人たちの目にはどのような景色が映っているのだろう」というようなことを言いました。いろいろなイメージが一瞬のうちに頭の中に去来したからです。映画祭の余韻から抜け出せきれていないので、世界中のあちこちで生きている人たちの目を意識せざるをえないのです。フランスのコンサートホールでイーグルス・オブ・デスメタルを聞いていた人たち、シリアから死を覚悟で海と陸をわたってきた人たち、時事的にそんなこともあるものだから、ちょっとセンチメンタルな気分も伴ってそんなことを口走りました。

 「そうやって美化することはない」。そんな取材先の人の言葉が私に刺さりました。「だって彼らは逃げたんだから」。彼ら一人一人の人生に何があったかは推し量れないが、何があったところで彼らはそれから逃げたんだ。みんな逃げないで頑張っているんだ。頑張ってみんな生きてるんだ。

 飲み会の席で、その人は仕事の話はあまりしないで、家族のことを話しました。子どもが3人、大学生の兄と妹と、高校生の弟。子どもたちとの微笑ましい日常について聞きました。それはとても理想的な家族風景であり、当の本人もその生活を愛していることがうかがえました。

 私も今となっては不用意な発言だったと思います。本気でその景色を見ようとも思わずに、実に傲慢な発言でした。

 おそらく、良き父であるその人は、「逃げる人間にはなってほしくない」という、子に対する戒めの言葉、愛ある言葉として、そう言ったのでしょう。

 でも、私は、承服できかねます。逃げたからダメなのか。そもそも逃げてはいけないのか。自分自身は「何か」から逃げてはいないのか。そういったことに私は自信を持つことができません。正直なことを言うと、私は、なぜ「美化」「逃げた」というワードを、ためらいなく使ってしまえるかが理解できないのです。酔った場で「ためらい」を求めるのはおかしいかもしれませんが・・・

 

 もう1つは、仕事仲間と新橋で。フランスのテロの話になりました。

 その時、私の先輩(3歳くらい)は「日本ではフランスのようなテロは起きない」と言いました。私がそれに食ってかかったのは言うまでもありません。なぜ、そんなことが、ためらいなく言えるのか、と。すると彼は「どうしてフランスでテロが起きたかわかるかい。どうしてドイツではなかったのか」と問い返しました。私は、うーん、と考え込みました・・・(このように相手の土俵に誘い込まれて撃沈、というケースが私にはとても多いのです。弁護士には絶対になれません。こういうのが議論の嫌なところです)。

 彼は、それはサイクス・ピコ協定があったからだと言いました。約90年前、オスマン帝国の解体に伴って、イギリス、フランス、ロシアの3国が勝手に国境線を引いた秘密協定のことです。実際に理不尽な取り決めだし、こんにちまで続くパレスチナ紛争の発端もここにある言われています(当然これだけではありません)。

 ただ、納得できません。この協定は、ずーーーーっと続いてきた中東不安の背景ではあるでしょう。だけど、フランスでテロが起きた理由としては、しっくりきません。

 彼の話によると、イスラム国は、この理不尽協定を話の種に賛同者を募っているようです。私は、「それは〝理由〟ではなくて、〝利用〟してるだけでしょう」と言ったような言ってないような、その時の記憶はおぼろげです。

 

 この2つの話、私の中ではピターーーーーーっとつながっております。

 社会人、ビジネスマンは、だいたいこういうふうに話すんだと。それをどうのこうの言うのはまた後にします。

モヤモヤこそ対話の糸口じゃないか、ということ

 ずるずると引き延ばしていた山形映画祭の残務処理がようやく終わった。わたしは終わったつもりでいるが、とても稚拙な原稿なのでチェックするほうは大変だと思う。しかし、この原稿は、自分の本業のほうで仕上げる原稿の何倍もの労力がかかった。ほんとうにいろんなことに気づかされた。そして、それでも甘いのだという事実も、確かに感じた。「何のため書くのか」ということ以上の、「なぜ書くのか」という本質的なことを突きつけられた気がする。


 自分の浅い経験のうえで言うと、職業的な記者なんて、誰でもなれる。誰だって、それなりの訓練と実務経験でなんとかなる。ほかのどの職業がそうであるように、石の上にも三年で、勝手に書けるようになる。手慣れている類の文章だったら、おちゃのこさいさいで書けてしまう。そういうものである。


 そのなかで何年もやれば、一流の記者になれる。どんなときも的確に取材し、的確に記事化することができてしまう。自分の会社にも、現にそういう記者が幾人かいる。そうして職業人としてのプライドが生まれる。


 一流の記者になりたいのであれば、なればいいと思う。その世界で確実に輝ける。尊敬される。自分の生き甲斐を見いだせる。別に皮肉っぽく言っているのではなくて、それは本当に素晴らしいことだと思っている。

 

 

 

 今回の映画祭では5人の監督にインタビューした。多くの場合、映画も素晴らしければ、監督本人も人格者で素晴らしかった。ドキュメンタリーの監督は気難しい人も多いだろうと予想していたのだが、皆さん、自分の映画が上映され、日本の観客に見られることを心からうれしがっていて(海外の方は日本で一度限りの上映だったりもするし)、その映画を事前にしっかりと見てきた自分たちを歓迎してくれた。それが大人の対応だったとしても、偶然その監督の性格なのだとしても、毎回毎回、こちらは夢のような時間を過ごさせてもらったのである。


 だけど自分には、ただ一人、ちょっと悔いが残るインタビューがあった。ちょっとどころではないか。


 それは、東日本大震災後、東京の首相官邸前で起き、後に全国に広がったビッグムーブメントをとらえた映画である。監督はわたしが大変尊敬する学者の方だったので、誰もインタビューに手を挙げないのだったら、やりたいと思っていた。「~たら」となぜ留保付きだったのかというと、わたしは、その映画そのものに対してはあまりいい印象を持たなかったからだ。そのムーブメントの熱気や人々の切実さを真空パックしたような映画で、それなりにヒットしていたようだし、賛辞を寄せる著名人(?)もたくさんいたようなのだが、わたしにとってはモヤモヤする映画だった。その当時、共感はしながらもモヤモヤしていた気持ちが、さらに増幅されたような気がした。それなのに、いくらネットサーフィンしても、肯定的な意見ばかり(しか、わたしには探せなかった)で、モヤモヤを吐露する人が全然見当たらなかった。(たぶん、モヤモヤした気分を表現するのって難しいし、書いてみたところでモヤモヤは変わらないからじゃないかと思うけど)


 そういうわけでインタビューを躊躇していたのだけど、やるとなったら尊敬する人と初めて対面し、言葉を交わすことができるのだから、俄然やる気が出てきた。勢い勇んでインタビューに臨み、ちょっと相手のクールさ(想定はしていたはずだが)に出鼻を挫かれ、ぎくしゃくと質問を重ねていって、なんとかかんとかインタビューを採ることはできた。だけどもなんだろう、モヤモヤはまったく解消されないまま残ってしまったのである。


 それは何を隠そう、わたしがモヤモヤを相手にぶつけるのをためらったからである。このモヤモヤは自分の中で確固たるモヤモヤとなって、もはや普遍化されているのだから、相手が激怒しようが反論しようがぶつけるべきであったのかもしれない。数ある礼賛的なインタビューに対して(この日本社会でメディアに掲載されるのは、ほぼ礼賛的なインタビューなのだが)、今回のインタビューがなし得た意義というのは、そこだったのではなかったかと、今になって後悔が尾を引いている。


 自分のモヤモヤをどうにかしようなんて、「職業記者」としてはするべきではないのかもしれない。うまく取材を完遂し、きれいな記事にするのが、職業記者としての最高の(最低限の?)仕事ではないか。


 ただ、そのモヤモヤは、すさまじく大事なことなんだと、俺の心の奥底は叫んでいる。やはり、あの時、モヤモヤを自信を持ってぶつけるという覚悟、いやそんな大仰なことではなくて、変に自分を取り繕うような気持ちを脱いで、なんとか彼と対話できなかったかと思うのである。

嫌な感じ、はするけれど

 フランスのパリで発生した同時多発テロは、やっぱりネットニュースで知った。テレビで確認できないし、最近は新聞に目を通す気力がなくなってしまい、情報量が少ないまま今に至っている。だから、何を言える訳でもないし、何を論じようとも思っていないのだが、ただ「嫌な感じ」がするだけである。

 今回の事件は、とても「テロリズム」的だなと思うのがひとつ(結局、論じようとしているようだが勘弁願いたい)。国際的なサッカー試合、それも歴史的に犬猿の仲とされていて、注目度が高そうなフランス対ドイツの試合にあわせて実行されたという点は、あからさまなほど「ショー(見せ物)」的であり、そんなハリウッド映画があったようなと思わせる意味で9・11ぽい。

 これは明らかにテロリストの狙いであり、テロリズムの常套である。

 もうひとつは、この事件に際して、フランスの大統領が非常事態宣言を出し、国民の連帯を呼び掛け、というような当然の動きを見せ、欧米各国のトップもすぐさまフランス国民に哀悼の意を表明し、連帯のメッセージを送った(日本政府の反応が遅かったとの指摘もあるようだが、その論点はひとまず置いておく)という。オバマは、このテロは人道と普遍的価値への攻撃であると言ったそうだ(人道は分かるが、普遍的価値とはどうだろうか?という論点も置いておく)。

 この反応も、当然と言えば当然だが、当然だからこそ、うさんくさく感じる。悪くいうと「芝居」みたいだ。フランスの大統領にとっては、そういうふうにリーダーシップをとろうとするのは常套である。ほかの各国にとっても、そういうメッセージを発することは、外交上、常套だ。わたしには、この反応も「テロリズムの常套」に見えてします。

 そんなひねくれたことを考えてしまうので、この事件のあれこれ(特にネットニュースという断片)に接していると、めまいを感じて、心が弱る。世界は、自ら望んで、悪い方向へ行くのだなと厭世的なことを考えてしまう。

 ついでに言うと、日本の中枢にいる奴らも、この「テロリズムの常套」をうまく利用して、日本を戦争のできる国にしてしまおうと考えているのだと、そう思う。全世界的な戦争(この場合、国と国の戦争ではなくて、全世界的な混乱という意味で、全世界的な紛争と言ってしまいたいけども)が起きてしまえば、自らが判断する前に、戦争ができる国になってしまう、この千載一遇のチャンスをものにしたいと、潜在意識の中で考えているに違いない。

 他力本願がすべて悪いとは言わないが(自分のことを棚上げできないし)、ここぞ!というときは、自分の意志で切り開きたい。これまでの政治を見てきて、この国のいまの中枢にその気がないのは明白なので、おそらくもっとも恐れていることが起こるであろう。そして、われわれはそれをそのまま「起こったこと」としてしまうだろう。でもそれは嫌だ。とても「嫌な感じ」がするのは、そういうわけだ。

 

 

 自分の話になってしまうのだけど、いま、とても厭世的な気分というのはあるんだけども、やはり腐ってはいけないなとも一方で思う。やはりそのせめぎ合い、一瞬一瞬で人の気分というのは変わってしまうのだけど、この文章を書いているうちにもいろんな感情が到来しては消えてなくなるのだけれど、というのが続いている。

 唐突であるが、山形映画祭で世界のたくさんの映画とその作り手に触れ、インタビューもやらせてもらって、というのが本当に大きいことであった。間近に聞いたイラクやコロンビアの作家(日本のすばらしい作家も当然いる)の声を、話を思い出しては、勇気が出るもんである。そして、自分の至らないことを思っては、まだまだ、まだまだと思える。まあ自分のことはいいとして、世界中に勇気があるんだし、誠実さもあるんだし、それを知ることができたのは大きいことだった。それは映画そのものから伝わってくるのだから、もっと上映の場が増えたらなあとも思う。優秀賞になったイラクとシリアの映画を観るだけで、なんか心持ちが変わってくる。またしっかり観たいなあ、そして監督にも再会して今度は(まずは)英語でしっかり言葉を伝えたいなあと思う。そういうことが希望になっている。

人間の政治性について

 人というのは何かに拘泥しているものである。

 映画や音楽に接するにつけ、すべてから自由である表現者などいないと感じる。むしろ、何かに(意識的にせよ無意識的にせよ)こだわっているものこそ、まさに個の表現として、自由である、と言うことができる。拘泥できる何かを獲得できたものだけが、達することができる表現というのがある。

 

 わたしが何にこだわっているのかというと、「人間の政治性」についてである。

 かつて、その語を、その語のまま、人に語ったことがあるけれども、なかなか伝わるものではない。そう、その「なかなか伝わらない」というもどかしさの中に、政治性があるんではないかと思ったのが、発端である。

 学生の時、吉本隆明の「関係の絶対性」という語を聞いてから、その6文字はずっとわたしの心の中に着床したままになっている。

 

 先輩と後輩、上司と部下というのは、きわめて政治的な関係性である。

 たかだか1年だけ年次が違うだけで、一方は饒舌に語り、一方はそれを当たり前のことかのように聞く。後輩だって、そのまた後輩に対しては、饒舌である。どちらの饒舌が、聞くに値するかは、あまり問題ではない。とにかく、一方が、また一方に対して「饒舌」なのだ。その関係性があるだけだ。

 人は、上か下かにかかわらず、立場が明確なことを、心理的に好む。気の置けない親友同士の関係でも、自らのフィールドに誘い込もうという、つばぜり合いが必ずある。

 

 なぜ、わたしが「人間の政治性」に拘泥するのか。

 それは、わたしが人間の政治性の操作方法をマスターすることで、人間関係の場を支配しよう(これは一般にコミュニケーション能力と言われる)と考えているのでは、無論ない。

 やはり、人間の政治性を超えたところに、もっといい世界が広がっているのではないか、と想像するからだ。

 吉本は、「関係の絶対性」と言うだけあって、それから逃れることは「絶対に」できないと言った。人間の生きる世界は、すべて幻想で構成されている。いわく、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」なのだと。

 果たして、幻想を超えることはできるのか。

 もう、堂々巡りになりそうなので、まずは終わりにする。

 

 さっき気づいたのは、「学ぶ」という言葉は、主体が受け手であることだ。

 「教える」とか「育てる」という施す側から語られる言葉もあるが、これらは「学ぶ」という言葉ほど深くない。なんか一方通行だ。主体が受け手である「学ぶ」という言葉こそ、人間の意志から発した、真に「能動的」な言葉に聞こえる。

 その意味で考えると、先生と生徒、師匠と弟子、これらの関係性は(あくまで本来的な意味で言うと)政治性が薄い。「学ぶ」のを決めるのは、受け手である生徒であり弟子であるからだ。生徒と弟子が「学ぶ」のをやめれば、先生と師匠はその役割を失う。決定権は生徒と弟子にある。

 でも、世の中はそうなっていない。そのギャップはなんなのか。そういうこともテーマのひとつである。

われを支配するは、ベンチのデザイン

 これは昔から思っていたことなのだが、東京という街は無駄に歩いてしまう街なのに、歩き疲れた時にひと休みしようとしてもそういう場所がない。夏のジリジリした暑さの中、どっかの建物に入って涼みたいと贅沢言わないまでも、せめて木陰で一息つきたい。

 東京で巨大な再開発をする場合、誰もが考えることは一緒で、口先では「この地域らしい、住民のための再開発だ」とか言うけども、だいたいは建物を高層化する。これを「森ビル方式」という(シンボリックだから勝手に命名)。

 どうして高層化するかというと、高層化すると土地が空いて、その空いた土地に広場だったり通路だったりをつくると、国や東京都が「建物、もっと大きくしていいよ」とお墨付きをくれるからだ。建物の大きさや高さはふつう、場所によって規制がかかっている。ただ、再開発する側が「憩いの広場をつくります」とか言って「いかにも地域の役に立つ再開発ですよー」とアピールすると、国や東京都は「それならよかろう」とか言って規制を緩めてくれる。だから、でっかくて高いビルができます。

 でっかいビルがつくれれば、その分だけマンションの部屋やオフィスフロアが増える。つまり、売ったり貸したりできるものが増えて、がっぽがっぽということです。そういった規制緩和の仕組みをうまく利用して、森ビルの人たちなんかは飯を食っています。

 

 そうやって都内には再開発された高層ビルがわんさかできて、ビルの足元には「憩いの広場」ができると。すばらしい。

 さて、そんな高層ビルの一つに行ってみたとき、こんな見慣れないオブジェを目にした。

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 曲面がゆるやかなラグビーボールの表面に、突起物が二つ。それが広場・通路に等間隔で並んでいる。「これは、もしや、まさか、ベンチではないか」。ちょっと座ってみる。突起物があるために深く座れず、半ケツにならざるをえない。さらに、ゆるやかな曲面となっていて、ケツへの当たりが快くない。

 ベンチの進化はこんなところまできた!おお、すばらしい。やはり日本は、常に進化することをやめない世界に冠たる国だ。けっっっ!!

 

 ベンチの進化の歴史を紐解いてみる(自分の記憶のみで)。最初にベンチの異変に気づいたとき、それはいつだったか。それはアルキメデスの発見のようでした。ごく一般的な二人掛けのベンチ。おそらく井の頭公園。池の畔にあるベンチに座った二人は、おそるおそるお互いに身体を近づけていって寄り添いながら手を握り合ったりなんだりしながら何を話すでもなくなんとなく、というシチュエーションである。しかし、ベンチに近づいたわたしが見たのは、二人の間を分かつ鋼鉄の肘掛けであったのです。

 それ以来、目に入るすべてのベンチが同じような形態をしていた。驚愕の事実だった。

 

 再開発などで非常に大きな建物をつくろうとすると、建築工事に入る前に近隣住民への説明会をしなくちゃならない。でっかい建物ができると前より人も訪れるだろうし、高層化したらビル風や日照権の問題もあるしで、何かと周辺環境が変化するからだ。

 ある説明会でこんなやりとりがあった。その再開発(某超有名ホテルの建て替え)では、10階そこそこだった歴史的な建物をぶっこわして、40階くらいのビルをおったてる。広く空いた残りの土地には緑をいっぱい植えて、ホテルに訪れた人がゆったりできる広場や遊歩道みたいなのをつくると。そんなことを説明していたら、どこかのおっちゃんが手を挙げてこう言った。「遊歩道なんかを地域に開放するのはいいんだが、その管理はどうするんだ。こんなことは言いたくないが、ホームレスの人たちが入ってこないとも限らない。それでは困る。しっかり管理してくれ」。ホテル側はそのつもりだとか答えたと思う。

 そういった「管理と排除」の風潮を批判しようとは思わない。むしろ塀で囲まれた城壁のような街が増えていく、そんな恐ろしい世の中にはならないのだからまずは良しとしたい。ここで強調したいのは、「管理と排除」の手法としていちばん手っとり早いのが、ベンチの進化であるということだ。

 当たり前だが、肘掛けがあると寝られないものね。背中痛めるものね。われわれだって寝たいときあるのにね。カップルは一人分の腰掛けに二人分のお尻を押し込むのかな、それも一興かもね。

 

 さて、ベンチの進化はとどまることを知らない。「個をつくる大学」の全学方針のもと、国や企業には干渉されない唯我独尊の学問の府としてその名を轟かす明治大学でも、進化は着々と進んだ。

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 できるだけ忠実に描きました。

 大学らしくエコに木材をつかったベンチ。木材は波打っている。ちょうどお尻の部分がすっぽりと入るかたちだ。さあ、学生らしく横になって寝てみよう。おっと、ん?からだがのけぞってしまううう。ちなみに、このベンチがあるのは、御茶ノ水にある明治大学の本部棟「リバティタワー(自由の塔)」。ぜんぜん自由にならないね、ぶざけるなだね。

 

 と、ここまで話を進めてきて、この文章を書き出したきっかけを忘れていた。オリンピックロゴのパクリ疑惑騒動である。そもそもオリンピックに何の興味もない、むしろ失敗でもしてくれればいいとさえ思っているわたしだが、パクリ疑惑勃発後、問題がどんどん飛び火し、弁明するために人前に出てきた当事者のデザイナーの感性のカの字も芸術のゲの字も感じない風貌を見るにつけ、デザインは嘘っぱちだと確信するに至った。

 ちょっと前に仕事で、あるマンションのコンセプト発表会に行った時のこと。そのマンションは、デザイン界の世界選手権で1等賞をとったというまだ若い気鋭の日本人デザイナーとコラボレーションしたもので、簡単に言うと間取りを自由自在に変化させることができるという斬新なコンセプト、というふれこみだった。自分には、果たしてそれが魅力的なのかどうか、ピンとこなかったが。

 質疑応答で、不動産業界の専門メディアの名物おっちゃん(何人かいるうちの一人)が、「わたしは、マンション業界は住まう人のためにもっといろいろできると、ずっと思ってきたのです。今回はものには、少しそれを感じることができた。あなたは世界的なデザイナーだと聞いている。日本の住まいに何が足りないのか、どうすればもっと良くなるのか、意見を聞かせてくれ」と熱い質問をした。おっちゃんの一人ヒートアップの勢いに、わたしは少しのけぞったが、それ以上にのけぞったのは当の世界的デザイナーである。

 才気ほとばしる気鋭のデザイナーはマイクを渡された。おっちゃんもわたしもその答えを固唾をのんで待った。そして彼は口を開いた。

 「がんばります(苦笑)」。何聞いてんだよ、このおっさんは。とほほ、ってな感じで言いやがったのだ、こいつは。いや、その場にいた大多数の人は、おっちゃんの質問を問題視して、そんな質問されて○○さん(世界的デザイナー)も困るよね、と思っているふうな反応だった。

 そんなスケール小さいもんかね、デザイナーって。オリンピックロゴのやつも含めて。クライアントにうまく取り込むためのコミュ力とかアピ力が高いのが第1条件だったりして。あとはスタイリッシュなアイデアがあればいいという。

 

 広義のデザイナーと捉えていいのであれば、建築家には「巨人」と呼ぶに相応しい人がたくさんいた。彼らはある意味、我らの生きる世界とは何かという問題を扱った「思想家」でもあった。

 いま最も影響力がありそうな隈研吾、大震災をきっかけにラディカルになった伊東豊雄、国立競技場問題の先頭に立つ槇文彦、現役でやっている人もいるし、もう死んじゃった黒川紀章なんてもっとすごくて、ソ連時代の東欧国に乗り込んで未来都市を構想した(実現しなかったみたいだが)。日本人建築家がすごいってわけじゃなくて、建築は世界中にあるわけで、世界中の建築家がすごかったりする。(ぜんぜん詳しくないけど)

 それに比べて、オリンピックロゴ野郎なんて「デザインを極めたら似ることはあるものだ」とかぶざけているとしか思えない。パクリかオリジナルかなんて、ちっぽけな人間のさもしい拘りに過ぎない。

 勘違いしないでほしいが、建築家が偉いわけじゃない。ただ、わたしがデザインの世界の門外漢で、建築の世界も門外漢だけどちょっとは知っているから例に出したまでだ。建築の世界にもロゴ野郎はいるだろう。ベンチを進化させたみたいに、せっせと管理手法を考えているだろう。 

 デザインの世界にも、おそらく「巨人」がいる(または、いた)。緻密で大胆な社会分析から思想を紡ぎ出し、デザインひとつで世の中を変えてしまうようなものを生み出す人間。

 彼らはなぜ「巨人」と呼ぶに相応しいのか。キリスト教の過激な新興グループが多いアメリカでは、宗教性のカモフラージュとして「神」の変名として「デザイナー」を使うことがあるようである(不確定情報)。デザインというのは、太古の昔から、人類にとっては宗教や麻薬や原子力に似たものではないのか。そんなふうに想像した。

三点倒立しながら屁をこくべきだ

 現代日本語の話法は2種類あるように思う。いや、2つの「極」があると言ったほうが正しいか。「自分語り」とそうではない語り。それははっきりと分割できるものではない。ほんのちょっとのニュアンスであっちにもこっちにも振れてしまうものだ。

 どんなことを語ったとしても「自分語り」でしかない、ということはよくあるものだ。殊のほか、私はそう感じることが多い。だから私は、そのことにできるだけ自覚的であろうと考えている(それを実践できているかどうかは問わない)。無自覚な自分語りほど、ほかならぬ「外なる自分」をしらけさせるものはない。自分同士の語り合いでは、対話はできない。一方通行でお互いに生返事を繰り返した末、睡魔が襲ってくるだけで、聞いてはいない。

 自分語りではない話法とは、単純に考えれば「無私」の語りであろう。新聞の話法がこれに近い。新聞の文章には「自分」がいないことになっている(そうじゃない記事があることも確かだが)。その結果、紋切り型の語が乱発されることになる。文章の構成も修辞のしかたもすべてが既視感のある、誰にも属さない言葉で占められる。

 ということで、私は、その間の話法を手に入れたいと思っているわけだ(まあ、思い上がりである)。やはり語る言葉に「自分」がいないと、すなわち身体性が伴わないと、言葉は宙に浮いてしまう。ただ、言葉を空間に漂わせて「自分」以外のところに届けることも必要である。観念的でうさんくさいもの言いだと感じるでしょうけども、これはとても大事なのではないかと思っている。

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 辺見庸に「三点凝視」というエッセイ(『眼の探索』で読める)があったのを思い出す。辺見は、駆け出しの事件記者のころ、先輩に「事件とそれを取り巻く世間も視圏に入れよ」との助言をもらい、「至言だと思った」という。しかし、「それを念頭に、書いて書いて書きまくり、大いに図に乗りもしたけれど、やがて倦み、虚しさばかりがつのるようになった」。そこで、3点目の視線、つまり自分自身に向けた視線を足した。三点凝視で辺見は書けなくなった。ただ、書けなくとも、本当の意味で書くためには遠回りだろうがそれしかないと結んでいる。

 

 話題が変わるようだが、この季節なので、新聞、テレビは戦後70年の特集が目白押しであった。それに絡めて、アップリンクという映画配給会社が無料配信していた「アルマジロ」というデンマークのドキュメンタリー映画を見た。2009年ころのアフガニスタンに駐中したデンマーク国連平和維持軍(間違っていたら失礼)に密着していて、駐留軍とタリバンのゲリラが戦闘するシーンもたくさん流れる。

 デンマークの田舎の若者なんかが兵士に志願してアフガニスタンで壮絶な体験をする。彼らは死にそうな思いをするものの、無事に国に帰還してからも、また最前線に行きたいと願うようになる。これを見て、彼らが「戦争中毒になった」と評する人もいるけど、自分はもっと身近なことなんではないかと思っている。

 70年前の若者は、本当に国家にだまされていた(この表現が適切でないのなら、国のことを信じていた)のかもしれない。本気で国に忠誠を誓い、お国のために立派に奉公しようと考えていたのかもしれない。

 現代の若者は、そういう人もいるかもしれないが、私も含めて国のために命を粗末にしようなんでこれっぽっちも思っていない。ただ、自分の命を燃やしたいとは思う。この人生を悔いのない、素晴らしいものにしようと願っている。そして、より強く、より太い人生を送るために、何をすればいいのかと考える。権力者にとって、若者を戦場に向かわせることは、そんなに難しいことじゃない。そんな切実な気持ちを利用してしまえばいいのだ。

 だから(ここが重要です)、自分語りを自ら解放して、もっと広々した視野をもたなければ、権力に抗えないのではないかと思っている。