政治とかを考える(1)

 あれをやりたいこれをやりたいと思っていても、そのほかのやらなければいけないことが頭をもたげて、結局何もできない・・・。

 そんな日々は苦しい。

 「苦しい」と書いて、朝日新聞の〝折々のことば〟に載っていた詩を思い出す。

 

 何でもないことを 悲しく言うのは 何でもないけど

 悲しいことを 何でもないように 言うのは苦しい   (小野省子)

 

 胸がつかえてしまいそう。選者の鷲田清一さんは「おのが悲しみについて書こうとすると、つい自らを哀れんで、ことばにふくらし粉をまぶしてしまう。あるがままを書くというのはそれほどに難しい。自分のことだからこそきちんと距離をとらないといけないのだが、自らを隔てるのは、言ってみればかさぶたを剥がすようなもの」と評している。

 

 一度にすべてを書こうとしてもうまくいくはずがない。起承転結のはっきりした、ものがたりのような、説得力のある言葉を紡ごうとしても無理がある。だったら、文章のうまいへた、字面の整然とした美しさ、余韻、などは何も意識せずに書いてしまおうと思う。思いつくままに。どこかで完結させようとすると一晩あっても足りないので、そんなことをして消耗するよりは屁をこくかのように書くのがいい。

 

 答えは出したい。やはり答えはある。だが、それを解くのは今でなくてもいい。高望みはする。だが、すぐには望まない。

 

 東浩紀の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が文庫化したので、読んでいる。おもしろい。

 ここでふと思ったのは、数百ページある本を要約するなんてすんごい難しいよなあ、ということである。本当はしっかりと引用しながら、わたしがこの本をどう読んだかを説明したいが、今日はしない。とりあえず雑感を記す。

 

 一般的に「民主主義」というのは、「熟議」があってこそと言われる。わたしたちが採用している間接民主主義制というのは、わたしたちの代表=議員による熟議を通してわたしたちの意志を決める、ということになっている。

 ただ、現在の政治状況をみるに、そのシステムは欠陥ではないかという疑いが生まれている。「わたしたちの意志」なんてそこには微塵もないではないか、という疑いである。シールズじゃないが、「民主主義はどこなんだ」という状況に陥っている。

 さて、東は、近代社会の礎となっているルソーの「一般意志」概念を掘り下げる。すると、実はルソーの目には、現在の熟議民主主義とは全く異なる社会像が描かれていたことが判明する。

 やはり世の中は、声のでかい者のためにある。それは遙か昔から変わらない。ルソーはそれじゃいけないと思った。

 政治参加のハードルが高すぎる。ディベートに勝てないようじゃ政治に意見を言っちゃだめなのか。そこでルソーは(東によると)「コミュニケーションなき政治の領域が必要だ」と思ったというのだ。

 

 わたしは長い間、ちまたで言う「コミュニケーション」に対し胡散臭さを感じてきた。わたしたちが分かり合い、思いを分かち合うためのものではなく、むしろ相手を出し抜くための極めてテクニカルな方法になっているような気がしていた。

 そんな考えがあったから、この本には冒頭から一気に引き込まれた。

 

 (つづく)