社会人と飲むということ

 今週は2つの飲み会がありました。

 

 1つは取材先との飲み会。新宿で飲んで、帰りがけにホームレスの人たちのことに話が及びました。

 なぜホームレスの人たちの話になったのかは、酔っていたので覚えていません。その時、前からホームレスらしき人が歩いてきて、取材先の人と「こんな寒い時期は大変だ」と話していたような気もします。

 私は、ふと、「あの人たちの目にはどのような景色が映っているのだろう」というようなことを言いました。いろいろなイメージが一瞬のうちに頭の中に去来したからです。映画祭の余韻から抜け出せきれていないので、世界中のあちこちで生きている人たちの目を意識せざるをえないのです。フランスのコンサートホールでイーグルス・オブ・デスメタルを聞いていた人たち、シリアから死を覚悟で海と陸をわたってきた人たち、時事的にそんなこともあるものだから、ちょっとセンチメンタルな気分も伴ってそんなことを口走りました。

 「そうやって美化することはない」。そんな取材先の人の言葉が私に刺さりました。「だって彼らは逃げたんだから」。彼ら一人一人の人生に何があったかは推し量れないが、何があったところで彼らはそれから逃げたんだ。みんな逃げないで頑張っているんだ。頑張ってみんな生きてるんだ。

 飲み会の席で、その人は仕事の話はあまりしないで、家族のことを話しました。子どもが3人、大学生の兄と妹と、高校生の弟。子どもたちとの微笑ましい日常について聞きました。それはとても理想的な家族風景であり、当の本人もその生活を愛していることがうかがえました。

 私も今となっては不用意な発言だったと思います。本気でその景色を見ようとも思わずに、実に傲慢な発言でした。

 おそらく、良き父であるその人は、「逃げる人間にはなってほしくない」という、子に対する戒めの言葉、愛ある言葉として、そう言ったのでしょう。

 でも、私は、承服できかねます。逃げたからダメなのか。そもそも逃げてはいけないのか。自分自身は「何か」から逃げてはいないのか。そういったことに私は自信を持つことができません。正直なことを言うと、私は、なぜ「美化」「逃げた」というワードを、ためらいなく使ってしまえるかが理解できないのです。酔った場で「ためらい」を求めるのはおかしいかもしれませんが・・・

 

 もう1つは、仕事仲間と新橋で。フランスのテロの話になりました。

 その時、私の先輩(3歳くらい)は「日本ではフランスのようなテロは起きない」と言いました。私がそれに食ってかかったのは言うまでもありません。なぜ、そんなことが、ためらいなく言えるのか、と。すると彼は「どうしてフランスでテロが起きたかわかるかい。どうしてドイツではなかったのか」と問い返しました。私は、うーん、と考え込みました・・・(このように相手の土俵に誘い込まれて撃沈、というケースが私にはとても多いのです。弁護士には絶対になれません。こういうのが議論の嫌なところです)。

 彼は、それはサイクス・ピコ協定があったからだと言いました。約90年前、オスマン帝国の解体に伴って、イギリス、フランス、ロシアの3国が勝手に国境線を引いた秘密協定のことです。実際に理不尽な取り決めだし、こんにちまで続くパレスチナ紛争の発端もここにある言われています(当然これだけではありません)。

 ただ、納得できません。この協定は、ずーーーーっと続いてきた中東不安の背景ではあるでしょう。だけど、フランスでテロが起きた理由としては、しっくりきません。

 彼の話によると、イスラム国は、この理不尽協定を話の種に賛同者を募っているようです。私は、「それは〝理由〟ではなくて、〝利用〟してるだけでしょう」と言ったような言ってないような、その時の記憶はおぼろげです。

 

 この2つの話、私の中ではピターーーーーーっとつながっております。

 社会人、ビジネスマンは、だいたいこういうふうに話すんだと。それをどうのこうの言うのはまた後にします。