モヤモヤこそ対話の糸口じゃないか、ということ

 ずるずると引き延ばしていた山形映画祭の残務処理がようやく終わった。わたしは終わったつもりでいるが、とても稚拙な原稿なのでチェックするほうは大変だと思う。しかし、この原稿は、自分の本業のほうで仕上げる原稿の何倍もの労力がかかった。ほんとうにいろんなことに気づかされた。そして、それでも甘いのだという事実も、確かに感じた。「何のため書くのか」ということ以上の、「なぜ書くのか」という本質的なことを突きつけられた気がする。


 自分の浅い経験のうえで言うと、職業的な記者なんて、誰でもなれる。誰だって、それなりの訓練と実務経験でなんとかなる。ほかのどの職業がそうであるように、石の上にも三年で、勝手に書けるようになる。手慣れている類の文章だったら、おちゃのこさいさいで書けてしまう。そういうものである。


 そのなかで何年もやれば、一流の記者になれる。どんなときも的確に取材し、的確に記事化することができてしまう。自分の会社にも、現にそういう記者が幾人かいる。そうして職業人としてのプライドが生まれる。


 一流の記者になりたいのであれば、なればいいと思う。その世界で確実に輝ける。尊敬される。自分の生き甲斐を見いだせる。別に皮肉っぽく言っているのではなくて、それは本当に素晴らしいことだと思っている。

 

 

 

 今回の映画祭では5人の監督にインタビューした。多くの場合、映画も素晴らしければ、監督本人も人格者で素晴らしかった。ドキュメンタリーの監督は気難しい人も多いだろうと予想していたのだが、皆さん、自分の映画が上映され、日本の観客に見られることを心からうれしがっていて(海外の方は日本で一度限りの上映だったりもするし)、その映画を事前にしっかりと見てきた自分たちを歓迎してくれた。それが大人の対応だったとしても、偶然その監督の性格なのだとしても、毎回毎回、こちらは夢のような時間を過ごさせてもらったのである。


 だけど自分には、ただ一人、ちょっと悔いが残るインタビューがあった。ちょっとどころではないか。


 それは、東日本大震災後、東京の首相官邸前で起き、後に全国に広がったビッグムーブメントをとらえた映画である。監督はわたしが大変尊敬する学者の方だったので、誰もインタビューに手を挙げないのだったら、やりたいと思っていた。「~たら」となぜ留保付きだったのかというと、わたしは、その映画そのものに対してはあまりいい印象を持たなかったからだ。そのムーブメントの熱気や人々の切実さを真空パックしたような映画で、それなりにヒットしていたようだし、賛辞を寄せる著名人(?)もたくさんいたようなのだが、わたしにとってはモヤモヤする映画だった。その当時、共感はしながらもモヤモヤしていた気持ちが、さらに増幅されたような気がした。それなのに、いくらネットサーフィンしても、肯定的な意見ばかり(しか、わたしには探せなかった)で、モヤモヤを吐露する人が全然見当たらなかった。(たぶん、モヤモヤした気分を表現するのって難しいし、書いてみたところでモヤモヤは変わらないからじゃないかと思うけど)


 そういうわけでインタビューを躊躇していたのだけど、やるとなったら尊敬する人と初めて対面し、言葉を交わすことができるのだから、俄然やる気が出てきた。勢い勇んでインタビューに臨み、ちょっと相手のクールさ(想定はしていたはずだが)に出鼻を挫かれ、ぎくしゃくと質問を重ねていって、なんとかかんとかインタビューを採ることはできた。だけどもなんだろう、モヤモヤはまったく解消されないまま残ってしまったのである。


 それは何を隠そう、わたしがモヤモヤを相手にぶつけるのをためらったからである。このモヤモヤは自分の中で確固たるモヤモヤとなって、もはや普遍化されているのだから、相手が激怒しようが反論しようがぶつけるべきであったのかもしれない。数ある礼賛的なインタビューに対して(この日本社会でメディアに掲載されるのは、ほぼ礼賛的なインタビューなのだが)、今回のインタビューがなし得た意義というのは、そこだったのではなかったかと、今になって後悔が尾を引いている。


 自分のモヤモヤをどうにかしようなんて、「職業記者」としてはするべきではないのかもしれない。うまく取材を完遂し、きれいな記事にするのが、職業記者としての最高の(最低限の?)仕事ではないか。


 ただ、そのモヤモヤは、すさまじく大事なことなんだと、俺の心の奥底は叫んでいる。やはり、あの時、モヤモヤを自信を持ってぶつけるという覚悟、いやそんな大仰なことではなくて、変に自分を取り繕うような気持ちを脱いで、なんとか彼と対話できなかったかと思うのである。