人間の政治性について

 人というのは何かに拘泥しているものである。

 映画や音楽に接するにつけ、すべてから自由である表現者などいないと感じる。むしろ、何かに(意識的にせよ無意識的にせよ)こだわっているものこそ、まさに個の表現として、自由である、と言うことができる。拘泥できる何かを獲得できたものだけが、達することができる表現というのがある。

 

 わたしが何にこだわっているのかというと、「人間の政治性」についてである。

 かつて、その語を、その語のまま、人に語ったことがあるけれども、なかなか伝わるものではない。そう、その「なかなか伝わらない」というもどかしさの中に、政治性があるんではないかと思ったのが、発端である。

 学生の時、吉本隆明の「関係の絶対性」という語を聞いてから、その6文字はずっとわたしの心の中に着床したままになっている。

 

 先輩と後輩、上司と部下というのは、きわめて政治的な関係性である。

 たかだか1年だけ年次が違うだけで、一方は饒舌に語り、一方はそれを当たり前のことかのように聞く。後輩だって、そのまた後輩に対しては、饒舌である。どちらの饒舌が、聞くに値するかは、あまり問題ではない。とにかく、一方が、また一方に対して「饒舌」なのだ。その関係性があるだけだ。

 人は、上か下かにかかわらず、立場が明確なことを、心理的に好む。気の置けない親友同士の関係でも、自らのフィールドに誘い込もうという、つばぜり合いが必ずある。

 

 なぜ、わたしが「人間の政治性」に拘泥するのか。

 それは、わたしが人間の政治性の操作方法をマスターすることで、人間関係の場を支配しよう(これは一般にコミュニケーション能力と言われる)と考えているのでは、無論ない。

 やはり、人間の政治性を超えたところに、もっといい世界が広がっているのではないか、と想像するからだ。

 吉本は、「関係の絶対性」と言うだけあって、それから逃れることは「絶対に」できないと言った。人間の生きる世界は、すべて幻想で構成されている。いわく、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」なのだと。

 果たして、幻想を超えることはできるのか。

 もう、堂々巡りになりそうなので、まずは終わりにする。

 

 さっき気づいたのは、「学ぶ」という言葉は、主体が受け手であることだ。

 「教える」とか「育てる」という施す側から語られる言葉もあるが、これらは「学ぶ」という言葉ほど深くない。なんか一方通行だ。主体が受け手である「学ぶ」という言葉こそ、人間の意志から発した、真に「能動的」な言葉に聞こえる。

 その意味で考えると、先生と生徒、師匠と弟子、これらの関係性は(あくまで本来的な意味で言うと)政治性が薄い。「学ぶ」のを決めるのは、受け手である生徒であり弟子であるからだ。生徒と弟子が「学ぶ」のをやめれば、先生と師匠はその役割を失う。決定権は生徒と弟子にある。

 でも、世の中はそうなっていない。そのギャップはなんなのか。そういうこともテーマのひとつである。