言葉遣いについて

 安保法制。今、マスメディアを賑わしている話題だ。しかし、テレビを見ないものだから、いまいち危機感が伝わってこない。最近、勉強不足を痛感しているので、自分の感覚がずれている(先週日曜日には国会周辺で20万人デモがあったようだし)だけかもしれない。

 細切れに伝わるニュースをちらちら見ていると、安倍政権とその周りにはびこる政治家連中が、気が狂ったかのような物言いをしていて、かなりびびる。印象論だけかざすようだが、安倍晋三からは人間性を感じない。ザ・腹話術人形だよなあ。

 個人的見解を述べると、安保法案の問題は、これから起きる諸問題の一つの形態に過ぎないのだと思う。安倍政権は、基本的人権も抹消しようとしているし、まだまだやりそうな雰囲気だ。特定秘密保護法が成立し、施行された以上、止まることをしらない。

 また勉強し直そうと思う。

 ところで、ブログを始めるからには、普段の文体とは全然違った文章を書いてみたいと思っていた。しかし、まだ憑かれている。大学生の頃より文章が下手になったなあと落ち込む時もある。リハビリのつもりで続けたい。

 日本の新聞(あるいは業界紙に限った話かもしれないが)には、純然たる「コード」=言葉の法則がある。ときに海外発信の記事の翻訳を読むと、クールでドライでシャープで(決して「スマート」ではない)、内容以前にコードの隔たりが浮き上がってくる。

 例を挙げよう。記事を書いていて、文末をあいまいにする言葉がたくさんある。最もポピュラーかつ最も分からん言葉が「~の模様」。何の模様だこの野郎。これはできるだけ使いたくないが、なぜかよく見る。「~とみられる」「~のようだ」「~の予定」「~の見込み」「~の見通し」「~となる可能性」などなど盛りだくさん。「など」という言葉も便利。いろんな名詞の後ろにつけるだけで限定を避けられる。つまりこれらは「逃げる」ための言葉である。

 こういう言葉にいつも囲まれているから、厭になっちゃうのよ。いや、それでも「国民を守るために!」とか「合憲だと言ってる専門家はたくさんいる!」とか何でもいいが、根拠のねえクソ断定を繰り返す連中を思うと、なんかどうすりゃいいのか分かんなくなってきた。

 こういう禅問答はもう止めにします。もよおす前に出そうとするからダメだ。ちゃんと食べて運動して、規則正しく脱糞すること大事。

 おそ松くんでした。