「ヘイトスピーチ」

 安田浩一著『ヘイトスピーチ』(文春新書)を読んでいる。昨日から読み始め、まだ3分の1ほどだが、大きな衝撃を受けている。何もどぎつい描写が目白押しだとか、そういう意味ではない。書かれていることは、テレビや新聞などとそうは変わらないと思う。新情報があるわけではない。ただ、その「ニュース」を巡る人々の思いをすくい取っている。これは、丹念な「取材」があってこそ。そういった著者の姿勢が伝わってきて、いち記者として、とても感動したり、恥ずかしくなったりしている。

 実は、私も1~2年前、ヘイトスピーチが巷で騒がれ出した頃(そのカウンターも起き始めた頃)、日曜日の昼下がり、東京・新大久保に向かったことがあった。

 直接、大久保駅に向かうのは気が引けたので、東新宿駅からデモ隊を待つことにした。正直に言うと、デモ隊とカウンター隊(しばき隊)がやり合っているとう話を聞いていたので、びびっていた。だから、新宿方面から偶然、デモ隊に遭遇した人物に自分を見せかけようと思った。

 「差別主義者がのさばっているのは許せん。こうしたことは止めさせたい。どうにかしたい」。こう頭では考えていたが、本心は違うところにあった。ただ単に、ニュースの核心に迫ってみたかったという興味本位のところがあった。

 デモ隊は、職安通りを大音量で練り歩いてきた。公衆の面前では言えないような言葉を次々とコールしていく。周りにはしばき隊の人たちがおり、罵声を浴びせ合ったり、小突き合いが起きたりしている。私は、歩行者に見せかけてしばき隊の中に入り、その様子を見ながら、「関係者」と思われないように、少ししたら横道にそれる、といった行動を繰り返した。両者ともカメラを構えていて、「お前の顔をさらしてやるぞ」と言い合っていた。私は、絶対にその渦中に入りたくなかった。どちらの人たちとも目を合わせないようにした。

 明治通りに入ったデモ隊を先回りして、大久保通りにやってきた。これからデモ隊に荒らされる通りには、日韓の友好を願ったプラカードを持った若者がいたり、お店の人たちが店先から不安や怒りをない交ぜにした顔をして立っていたりした。私は、その通りの前を何食わぬ顔で歩いた。まるで何も知らないかのように。だいたいことの様子を見終えたと思った私は、デモが終わる前に大久保の街を後にしていた。

 その後、ことある事に私は、大久保のヘイトデモを見に行ったと誰彼に話したのだった。時には、しばき隊の一員として、くそやろうどもを成敗してやっと息巻いたかもしれない。それから、私の中でヘイトスピーチは、どんどん小さな事象になってしまったように思う。ことが起こっている現場に行ったことを、免罪符にしてしまったのだ。

 「現場に行くことが、想像力を失わせてしまうこともある」。誰が言ったことではないが、そういうことだろうか。記者という職業に限ったことではないと思うが、「現場主義」という言葉がある。確かに、現場を見る、体験することは重要だ。現場でしか得られないものが確実にある。しかし、それにあぐらをかいてはいけない。生かすも殺すも本人次第なのだ。

 おそらく、震災を巡っても、同様のことが言える。被災した人たちは、常にそこにいる。そのことを忘れてしまうことがある。

 さて、一般論を語って、当初の「ヘイトスピーチ」に関する事柄を消化してしまうことこそ、もっとも避けたい。まずは『ヘイトスピーチ』を読んで、また大久保の街や、何かにさらされて生きている人たちのことを、思ってみようと思う。