われを支配するは、ベンチのデザイン

 これは昔から思っていたことなのだが、東京という街は無駄に歩いてしまう街なのに、歩き疲れた時にひと休みしようとしてもそういう場所がない。夏のジリジリした暑さの中、どっかの建物に入って涼みたいと贅沢言わないまでも、せめて木陰で一息つきたい。

 東京で巨大な再開発をする場合、誰もが考えることは一緒で、口先では「この地域らしい、住民のための再開発だ」とか言うけども、だいたいは建物を高層化する。これを「森ビル方式」という(シンボリックだから勝手に命名)。

 どうして高層化するかというと、高層化すると土地が空いて、その空いた土地に広場だったり通路だったりをつくると、国や東京都が「建物、もっと大きくしていいよ」とお墨付きをくれるからだ。建物の大きさや高さはふつう、場所によって規制がかかっている。ただ、再開発する側が「憩いの広場をつくります」とか言って「いかにも地域の役に立つ再開発ですよー」とアピールすると、国や東京都は「それならよかろう」とか言って規制を緩めてくれる。だから、でっかくて高いビルができます。

 でっかいビルがつくれれば、その分だけマンションの部屋やオフィスフロアが増える。つまり、売ったり貸したりできるものが増えて、がっぽがっぽということです。そういった規制緩和の仕組みをうまく利用して、森ビルの人たちなんかは飯を食っています。

 

 そうやって都内には再開発された高層ビルがわんさかできて、ビルの足元には「憩いの広場」ができると。すばらしい。

 さて、そんな高層ビルの一つに行ってみたとき、こんな見慣れないオブジェを目にした。

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 曲面がゆるやかなラグビーボールの表面に、突起物が二つ。それが広場・通路に等間隔で並んでいる。「これは、もしや、まさか、ベンチではないか」。ちょっと座ってみる。突起物があるために深く座れず、半ケツにならざるをえない。さらに、ゆるやかな曲面となっていて、ケツへの当たりが快くない。

 ベンチの進化はこんなところまできた!おお、すばらしい。やはり日本は、常に進化することをやめない世界に冠たる国だ。けっっっ!!

 

 ベンチの進化の歴史を紐解いてみる(自分の記憶のみで)。最初にベンチの異変に気づいたとき、それはいつだったか。それはアルキメデスの発見のようでした。ごく一般的な二人掛けのベンチ。おそらく井の頭公園。池の畔にあるベンチに座った二人は、おそるおそるお互いに身体を近づけていって寄り添いながら手を握り合ったりなんだりしながら何を話すでもなくなんとなく、というシチュエーションである。しかし、ベンチに近づいたわたしが見たのは、二人の間を分かつ鋼鉄の肘掛けであったのです。

 それ以来、目に入るすべてのベンチが同じような形態をしていた。驚愕の事実だった。

 

 再開発などで非常に大きな建物をつくろうとすると、建築工事に入る前に近隣住民への説明会をしなくちゃならない。でっかい建物ができると前より人も訪れるだろうし、高層化したらビル風や日照権の問題もあるしで、何かと周辺環境が変化するからだ。

 ある説明会でこんなやりとりがあった。その再開発(某超有名ホテルの建て替え)では、10階そこそこだった歴史的な建物をぶっこわして、40階くらいのビルをおったてる。広く空いた残りの土地には緑をいっぱい植えて、ホテルに訪れた人がゆったりできる広場や遊歩道みたいなのをつくると。そんなことを説明していたら、どこかのおっちゃんが手を挙げてこう言った。「遊歩道なんかを地域に開放するのはいいんだが、その管理はどうするんだ。こんなことは言いたくないが、ホームレスの人たちが入ってこないとも限らない。それでは困る。しっかり管理してくれ」。ホテル側はそのつもりだとか答えたと思う。

 そういった「管理と排除」の風潮を批判しようとは思わない。むしろ塀で囲まれた城壁のような街が増えていく、そんな恐ろしい世の中にはならないのだからまずは良しとしたい。ここで強調したいのは、「管理と排除」の手法としていちばん手っとり早いのが、ベンチの進化であるということだ。

 当たり前だが、肘掛けがあると寝られないものね。背中痛めるものね。われわれだって寝たいときあるのにね。カップルは一人分の腰掛けに二人分のお尻を押し込むのかな、それも一興かもね。

 

 さて、ベンチの進化はとどまることを知らない。「個をつくる大学」の全学方針のもと、国や企業には干渉されない唯我独尊の学問の府としてその名を轟かす明治大学でも、進化は着々と進んだ。

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 できるだけ忠実に描きました。

 大学らしくエコに木材をつかったベンチ。木材は波打っている。ちょうどお尻の部分がすっぽりと入るかたちだ。さあ、学生らしく横になって寝てみよう。おっと、ん?からだがのけぞってしまううう。ちなみに、このベンチがあるのは、御茶ノ水にある明治大学の本部棟「リバティタワー(自由の塔)」。ぜんぜん自由にならないね、ぶざけるなだね。

 

 と、ここまで話を進めてきて、この文章を書き出したきっかけを忘れていた。オリンピックロゴのパクリ疑惑騒動である。そもそもオリンピックに何の興味もない、むしろ失敗でもしてくれればいいとさえ思っているわたしだが、パクリ疑惑勃発後、問題がどんどん飛び火し、弁明するために人前に出てきた当事者のデザイナーの感性のカの字も芸術のゲの字も感じない風貌を見るにつけ、デザインは嘘っぱちだと確信するに至った。

 ちょっと前に仕事で、あるマンションのコンセプト発表会に行った時のこと。そのマンションは、デザイン界の世界選手権で1等賞をとったというまだ若い気鋭の日本人デザイナーとコラボレーションしたもので、簡単に言うと間取りを自由自在に変化させることができるという斬新なコンセプト、というふれこみだった。自分には、果たしてそれが魅力的なのかどうか、ピンとこなかったが。

 質疑応答で、不動産業界の専門メディアの名物おっちゃん(何人かいるうちの一人)が、「わたしは、マンション業界は住まう人のためにもっといろいろできると、ずっと思ってきたのです。今回はものには、少しそれを感じることができた。あなたは世界的なデザイナーだと聞いている。日本の住まいに何が足りないのか、どうすればもっと良くなるのか、意見を聞かせてくれ」と熱い質問をした。おっちゃんの一人ヒートアップの勢いに、わたしは少しのけぞったが、それ以上にのけぞったのは当の世界的デザイナーである。

 才気ほとばしる気鋭のデザイナーはマイクを渡された。おっちゃんもわたしもその答えを固唾をのんで待った。そして彼は口を開いた。

 「がんばります(苦笑)」。何聞いてんだよ、このおっさんは。とほほ、ってな感じで言いやがったのだ、こいつは。いや、その場にいた大多数の人は、おっちゃんの質問を問題視して、そんな質問されて○○さん(世界的デザイナー)も困るよね、と思っているふうな反応だった。

 そんなスケール小さいもんかね、デザイナーって。オリンピックロゴのやつも含めて。クライアントにうまく取り込むためのコミュ力とかアピ力が高いのが第1条件だったりして。あとはスタイリッシュなアイデアがあればいいという。

 

 広義のデザイナーと捉えていいのであれば、建築家には「巨人」と呼ぶに相応しい人がたくさんいた。彼らはある意味、我らの生きる世界とは何かという問題を扱った「思想家」でもあった。

 いま最も影響力がありそうな隈研吾、大震災をきっかけにラディカルになった伊東豊雄、国立競技場問題の先頭に立つ槇文彦、現役でやっている人もいるし、もう死んじゃった黒川紀章なんてもっとすごくて、ソ連時代の東欧国に乗り込んで未来都市を構想した(実現しなかったみたいだが)。日本人建築家がすごいってわけじゃなくて、建築は世界中にあるわけで、世界中の建築家がすごかったりする。(ぜんぜん詳しくないけど)

 それに比べて、オリンピックロゴ野郎なんて「デザインを極めたら似ることはあるものだ」とかぶざけているとしか思えない。パクリかオリジナルかなんて、ちっぽけな人間のさもしい拘りに過ぎない。

 勘違いしないでほしいが、建築家が偉いわけじゃない。ただ、わたしがデザインの世界の門外漢で、建築の世界も門外漢だけどちょっとは知っているから例に出したまでだ。建築の世界にもロゴ野郎はいるだろう。ベンチを進化させたみたいに、せっせと管理手法を考えているだろう。 

 デザインの世界にも、おそらく「巨人」がいる(または、いた)。緻密で大胆な社会分析から思想を紡ぎ出し、デザインひとつで世の中を変えてしまうようなものを生み出す人間。

 彼らはなぜ「巨人」と呼ぶに相応しいのか。キリスト教の過激な新興グループが多いアメリカでは、宗教性のカモフラージュとして「神」の変名として「デザイナー」を使うことがあるようである(不確定情報)。デザインというのは、太古の昔から、人類にとっては宗教や麻薬や原子力に似たものではないのか。そんなふうに想像した。