三点倒立しながら屁をこくべきだ

 現代日本語の話法は2種類あるように思う。いや、2つの「極」があると言ったほうが正しいか。「自分語り」とそうではない語り。それははっきりと分割できるものではない。ほんのちょっとのニュアンスであっちにもこっちにも振れてしまうものだ。

 どんなことを語ったとしても「自分語り」でしかない、ということはよくあるものだ。殊のほか、私はそう感じることが多い。だから私は、そのことにできるだけ自覚的であろうと考えている(それを実践できているかどうかは問わない)。無自覚な自分語りほど、ほかならぬ「外なる自分」をしらけさせるものはない。自分同士の語り合いでは、対話はできない。一方通行でお互いに生返事を繰り返した末、睡魔が襲ってくるだけで、聞いてはいない。

 自分語りではない話法とは、単純に考えれば「無私」の語りであろう。新聞の話法がこれに近い。新聞の文章には「自分」がいないことになっている(そうじゃない記事があることも確かだが)。その結果、紋切り型の語が乱発されることになる。文章の構成も修辞のしかたもすべてが既視感のある、誰にも属さない言葉で占められる。

 ということで、私は、その間の話法を手に入れたいと思っているわけだ(まあ、思い上がりである)。やはり語る言葉に「自分」がいないと、すなわち身体性が伴わないと、言葉は宙に浮いてしまう。ただ、言葉を空間に漂わせて「自分」以外のところに届けることも必要である。観念的でうさんくさいもの言いだと感じるでしょうけども、これはとても大事なのではないかと思っている。

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 辺見庸に「三点凝視」というエッセイ(『眼の探索』で読める)があったのを思い出す。辺見は、駆け出しの事件記者のころ、先輩に「事件とそれを取り巻く世間も視圏に入れよ」との助言をもらい、「至言だと思った」という。しかし、「それを念頭に、書いて書いて書きまくり、大いに図に乗りもしたけれど、やがて倦み、虚しさばかりがつのるようになった」。そこで、3点目の視線、つまり自分自身に向けた視線を足した。三点凝視で辺見は書けなくなった。ただ、書けなくとも、本当の意味で書くためには遠回りだろうがそれしかないと結んでいる。

 

 話題が変わるようだが、この季節なので、新聞、テレビは戦後70年の特集が目白押しであった。それに絡めて、アップリンクという映画配給会社が無料配信していた「アルマジロ」というデンマークのドキュメンタリー映画を見た。2009年ころのアフガニスタンに駐中したデンマーク国連平和維持軍(間違っていたら失礼)に密着していて、駐留軍とタリバンのゲリラが戦闘するシーンもたくさん流れる。

 デンマークの田舎の若者なんかが兵士に志願してアフガニスタンで壮絶な体験をする。彼らは死にそうな思いをするものの、無事に国に帰還してからも、また最前線に行きたいと願うようになる。これを見て、彼らが「戦争中毒になった」と評する人もいるけど、自分はもっと身近なことなんではないかと思っている。

 70年前の若者は、本当に国家にだまされていた(この表現が適切でないのなら、国のことを信じていた)のかもしれない。本気で国に忠誠を誓い、お国のために立派に奉公しようと考えていたのかもしれない。

 現代の若者は、そういう人もいるかもしれないが、私も含めて国のために命を粗末にしようなんでこれっぽっちも思っていない。ただ、自分の命を燃やしたいとは思う。この人生を悔いのない、素晴らしいものにしようと願っている。そして、より強く、より太い人生を送るために、何をすればいいのかと考える。権力者にとって、若者を戦場に向かわせることは、そんなに難しいことじゃない。そんな切実な気持ちを利用してしまえばいいのだ。

 だから(ここが重要です)、自分語りを自ら解放して、もっと広々した視野をもたなければ、権力に抗えないのではないかと思っている。