個人の戦い

 安保関連11法案が今週中にも衆議院を通過しそうだとメディアが伝えている。とてもあっさりとしている。皆が冷静すぎると感じている。

 先日、会社の組合の幹部である先輩記者(31)が、団体交渉中に会社役員に激高し、ひどく罵ったあげく、団交を途中退席。その辺にあった椅子をぶち蹴り、帰ってしまった。

 オーナー企業であるせいか、役員待遇が旧態依然としており、現場の実情も理解しようとしない態度に対し、怒りが爆発したのだ。

 すでに一週間が経過したが、怒りは収まっていない。多くの一般社員はその気持ちを理解しているが、今では会社側はおろか、一般社員のほうにも「子どもじゃあるまいし」という意見が出始めている。はたまた「あの人はそういうところがあるから」という声まで。

 

 私は組合に加入していない。役員がどうしようもない人間であることは知っているし、そいつらに対抗するために組合に参加して協力しなければいけないというのは分かっている。

 しかし、冷めた気持ちに嘘はつけない。私は今、会社以外の場でどうやって自己でいられるかを強烈に求めているからだ。逃げていると言われても否定はしない。ただ、ある程度の年齢、経験を重ねることで、限られた時間と能力をどう使うべきかを考えざるを得なくなる。いかに徒労であっても、自分の納得できる徒労を味わって生きていたいと思うのだ。

 だから件の先輩記者の行動を訳しれ顔にたしなめたりなんてことは、決してしない。加勢もしないけども、彼もそれを求めてはいないだろう。これは個人の戦いである。言ってること、やってることが何だろうと、人間は2種に分かれる。メンツと振る舞いにとらわれる者と、とらわれまいとする者。どちらの人間だって、豊かに幸せに生きていける。ただ、個人の戦いを許されるのは後者だけだ。

 

 個人の戦いのあり方はさまざまだ。私は、安保法制に反対する学生グループSEALDsの人たちにも、個人の戦いを感じる。これまで、あらゆるデモ・集会には、仲良し集団が放つ、居心地の悪い生あたたかさがあった。SEALDs関連の集会には、それをほとんど感じることがなかった。

 個人の戦い、その定義は?バカなことをおっしゃるな。見て、聞いて、感じれば、おのずと分かる。そういうのが個人の戦いだ。