70年目は骨抜きになってタコ踊りして
戦後70年の首相談話が発表されたので読んでみた。70年談話:安倍晋三首相談話全文 - 毎日新聞
新聞にもあまり目を通していなかったので事前知識ほぼゼロ。安倍晋三がどう文章をこしらえたか、その興味だけで一読してみた。
率直に言うと、文意がつかみにくい、官僚がつくったような文章である。文章でパッとしなくても、演説すればそれなりにサマになるのであろうか。いや、そんなことはないだろうな。
数珠つなぎのような構成(Aもあり、Bもあり、Cもあり・・・)、打ち消しによる中和作用(Aもある。しかし・ただ、Bもある)が目立つような気がする。とにかく、いろんなところに配慮しようとした形跡がある。たぶん、この1か月くらいで文面はかなり変更されているんではなかろうか。
ということで、文章としては見ることがない、価値を見いだしにくいものとなっております。残念。最後の方、女性の人権や国際経済システム、そして「積極的平和主義」に触れたところは、唐突な印象もある。「この言葉は使いたかったのだな」と見え見えで、せこいとすら感じるほどだ。文章じゃなくて、ただの「言葉パズル」じゃねえか!と思いました。
でも、日本にはそうした文章があふれています。行政文書はそうだし、企業のプレスリリースもそうです。悲しいばかりです。(パズル文章に疲弊しきった私の脳みそに、会田誠の『青春と変態』という小説はときめきを与えてくれた)
突然だが、上記の絵は、竹田一夫「或る記憶」という。先月末あたりに千代田区のちっこい施設でやっていたシベリア抑留者の絵画展で見た。竹田氏は戦後、現代美術の団体の会長を務めたとか、セミプロで活動していた方のようである。
見ての通り、抽象的な絵だ。身体の節々が砕け、焼けこげたような人間がおり、その後ろに亡霊のような、モノのような人間たちがゆらめいている。人間たちは地面と空に溶け出しているようにも見える。節が砕けた人は、人間たちが溶けた地面に座り、もだえているのか。地面には棒が刺さり、その影が不気味に伸びている。
陳腐な言い方だが、自らの体験を刻みつけようとしたのではないだろうか。どうやらこの絵を描いたのは、晩年になってから(竹田氏は故人)。若い頃、頭の裏に着床した記憶をできるだけ正確に現出させたらこうなった、という説得力を感じさせる。
同じ絵画展にあった、佐藤清「埋葬前のたき火」という絵である。
詳しいキャプションがついていた。「極寒の夜、凍った地面をどうにか削り、苦労してたき火をおこした。へとへとに疲れた人は、たき火に手をかざしてつかの間の心の平安を得た。火が服の裾に燃え移っているのも気づかずに」という意味の文章がつづられていた。そしてタイトルが「埋葬前のたき火」。
絵の中で、人はたき火と一体となっている。身体は火の暖かみで解凍され、ぬくもりを取り戻し、顔には安堵の表情が浮かび、周囲にも暖かく穏やかな空気が広がっているようだ。
この絵にはとても惹かれている。たき火に手をかざした(炎を抱いているといったほうが正確なくらいだ)彼が、心が穏やかなまま死んでいったのかは想像の及びつかぬところである。ただ、佐藤氏が絵にタイトルをつけ、キャプションをつけたことに何かしらの意思があったのは確かだと思う。
二つの絵は全く違うように見えて、同じようにも見える。うまく説明はできないけれども。