肝のだだ漏れ男

 眠っているのか起きているのか判別できない半目状態でうつらうつらしているとき、私は現実を忘れられるのである。

 今日の昼下がりにも、優しい太陽の光を浴び、さわやかな風を受けながら、現実離れした至福と不安が入り交じった時間を味わった。

 そういう状態で眼裏に照射される光景(いわゆる夢だが)は、だいたい覚えていない。思考回路も普段と違うため、論理では追い切れない。

 ただ今日は、こんなことを思った。映画で人が殺される。あるいは、遠く海を隔てた国で、無差別に人が殺される。私の眼前にいた人は、子どもではなかった。私くらいではなかったか。その人は、28年間も生きてきて、言い換えると1万日以上生きてきて、今日、この瞬間に殺されたのだ。

 考えてみると、不思議なことだ。それなりの長さ、燃え続けてきた炎が、ぽっ、とあっさり消えてしまう。おそらく、これが私が無意識に抱える死への恐れなのだろう。

 さて、安保法制の話になってしまうのだが、私はこれに反対の意を示すに当たって、自分の中で整理しなければならないことがあると思った。

 すなわち、①安保法制そのものに反対なのか②安倍晋三およびその取り巻き連中の強行な政治手法に反対なのかーどちらかだ。

 いや、どっちもなのだろう。ただ、現在のマスメディアの情報を見ていると、②に傾きかけている。安倍晋三に近い若手議員による「文化芸術懇話会」の一連の報道は、安倍晋三を含む今時の自民党政治家が腹の内に潜ませている「本音」を暴露したという意味で興味深かった(百田は単なるピエロだから問題にならない)。ただ、そんなことは分かりきっている。一度、政権を放棄した安倍晋三が、異なる意見を一切受け入れない非人間的な無神経さ(一方で自らの思想への狂信性)を身につけて舞い戻ってきたときから、分かりきっていた。たった1年半前には、特定秘密保護法強行採決があったではないか。何度同じことを繰り返すのか。

 正直、安倍晋三にはめちゃくちゃ怒っておる。こやつ、「おじいちゃんの悲願をおれが成し遂げるんだ」というロマンに浸りきって、国民誰ひとり眼中には入っておらん。憲法学者、政治学者、誰に何を言われようがへっちゃら。日本のヒトラーだ、ジョージ・オーウェルのニュー・スピークそのものだ、と言われても、だからどうしたと鼻くそほじっている肝のだだ漏れ男なのだ。

 やはり安保法制に反対したい。仮に安保法案が憲法に違反していなかったとしても、法案そのものに対し、反対したい。

 ぽっ、とあっさり消えてしまう命。だからこそ、誰にも左右させてはいけない。

 ということで、本題はここから・・・